当会について
当会について
本会は、幕末の1855年(安政2年)に日露和親条約締結のため 来日したプチャーチン提督配下のロシア人と日本の船大工の協力 のもとに沼津市戸田で建造された、洋式帆船ヘダ号がもたらした 造船技術や人々の新たな世界にたいする理解が、 明治以降の近代日本を諸外国列強と対峙できるほどに 大きく成長させる原動力となったとの認識に基づき、 ヘダ号の復元(再建)を行うことを目的に設立された。 ヘダ号の復元(再建)を推し進めることで、 その存在を長く将来にわたり心に刻みつけていくとともに、 洋式建造術を習得する契機となった日本とロシアとの深いつながりを 再確認し、 新生ヘダ号を日露友好の懸け橋とするだけでなく、 地域活性化の一助とすることを目指している。
役職者 代表理事 山口 展徳(ヘダ号建造時の木挽きの子孫)
副代表理事 伊藤 稔(信州大学名誉教授)
顧問 荒川 邦夫(前代表理事・元戸田村村長)
顧問 木下 健(東京大学名誉教授)
ヘダ号 の1/40模型 (野田陸郎氏 製作)
ヘダ号再建プロジェクトのミッション
幕末の船大工達によって建造されたスクーナー型帆船ヘダ号を復元します。
それらを後世に遺すために保存と継承に努めます。
ディアナ号・ヘダ号の歴史と地域のかかわり
1854 年(嘉永7年)、ロシアの提督プチャーチンの乗艦するディアナ号は、 日本との開国を求めて下田に来航するも、安政東海地震に遭遇し大破してしまう。
修理のため西伊豆の戸田に曳港されたディアナ号は、 その途中で二度の大嵐に遭い富士の宮島沖で沈没。 沿岸住民の必死の救助活動により500 余名の乗組員は全員救助された。
帰国を急ぐロシア側と、西洋の造船技術を習得したい日本側の思惑が一致し、 戸田で代替船を建造することになり、韮山代官江川太郎左衛門の監督のもと 共同作業がはじまる。
遂に完成した船は「ヘダ号」と名付けられ、プチャーチンらは翌1855年、 無事帰国の途に着いた。このとき西洋式船建造の技術を学んだ戸田の船大工たちは、 その後各地にそれを伝え、日本の近代造船発展の礎となっていく。
ヘダ号歴史年表
1854 年12 月23 日 | 幕府との条約締結交渉のため来日したプチャーチン提督は安政大地震に遭遇し、 ディアナ号は激しく損傷。 |
1855 年1 月19 日 | 修理の為、戸田村に向かう。 沼津の漁船100-200 艘がディアナ号を戸田に曳航しようとするが、途中沈没する。 ディアナ号が航行不能となった際に現在の富士市住民が田子の浦沖で乗組員500 名を救出。 |
1855 年1 月21日 | 幕府に代替船建造を申し出る。 |
1855 年1 月23日 | 代替船建造が許可される。 韮山代官 江川太郎左衛門が代替船建造 取締役に就任。 |
1855 年1 月25日 | 乗組員一行が戸田に到着。 |
1855 年2 月7 日 | 下田にて日露和親条約調印される。 |
1855 年2 月10 日前後 | 戸田にて代替船建造はじまる。 |
1855 年4 月26 日 | ヘダ号進水。(『ヘダ号』とプチャーチン提督が命名。) |
1855 年5 月3 日 | ヘダ号試運転。(御前崎まで航行。) |
1855 年5 月8 日 | ヘダ号出港。 |
1855 年5月12 日 | 幕府の命により、戸田にて追加のスクーナ船建造を開始。 |
1855 年7 月14 日 | 最後の乗組員らがロシアに向け出発。 |
1855 年12 月11 日 | 6隻のスクーナ船戸田にて完成。 |
1856 年5 月29 日 | 幕府 戸田で建造されたスクーナ船を君沢形(きみさわがた)と命名 スク―ナ船の技術は全国に広がり日本の洋式造船技術の先駆けとなる。 |
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一般社団法人 ヘダ号再建プロジェクト会
〒410-0845 静岡県沼津市千本港町115-4 横屋
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静岡銀行 | 沼津支店(251) 普通預金1435150 |
口座名義 | 一般社団法人ヘダ号再建プロジェクト会 代表理事 山口 展徳 |