1854 年(嘉永7年)、ロシアの提督プチャーチンの乗艦するディアナ号は、 日本との開国を求めて下田に来航するも、安政東海地震に遭遇し大破してしまう。
修理のため西伊豆の戸田に曳港されたディアナ号は、 その途中で二度の大嵐に遭い富士の宮島沖で沈没。 沿岸住民の必死の救助活動により500 余名の乗組員は全員救助された。
帰国を急ぐロシア側と、西洋の造船技術を習得したい日本側の思惑が一致し、 戸田で代替船を建造することになり、韮山代官江川太郎左衛門の監督のもと 共同作業がはじまる。
遂に完成した船は「ヘダ号」と名付けられ、プチャーチンらは翌1855年、 無事帰国の途に着いた。このとき西洋式船建造の技術を学んだ戸田の船大工たちは、 その後各地にそれを伝え、日本の近代造船発展の礎となっていく。