ヘダ号の歴史

ディアナ号・ヘダ号の歴史と地域のかかわり

1854 年(嘉永7年)、ロシアの提督プチャーチンの乗艦するディアナ号は、 日本との開国を求めて下田に来航するも、安政東海地震に遭遇し大破してしまう。

修理のため西伊豆の戸田に曳港されたディアナ号は、 その途中で二度の大嵐に遭い富士の宮島沖で沈没。 沿岸住民の必死の救助活動により500 余名の乗組員は全員救助された。

帰国を急ぐロシア側と、西洋の造船技術を習得したい日本側の思惑が一致し、 戸田で代替船を建造することになり、韮山代官江川太郎左衛門の監督のもと 共同作業がはじまる。

遂に完成した船は「ヘダ号」と名付けられ、プチャーチンらは翌1855年、 無事帰国の途に着いた。このとき西洋式船建造の技術を学んだ戸田の船大工たちは、 その後各地にそれを伝え、日本の近代造船発展の礎となっていく。

ヘダ号歴史年表

1854 年12 月23 日幕府との条約締結交渉のため来日したプチャーチン提督は安政大地震に遭遇し、
ディアナ号は激しく損傷。
1855 年1 月19 日修理の為、戸田村に向かう。
沼津の漁船100-200 艘がディアナ号を戸田に曳航しようとするが、途中沈没する。
ディアナ号が航行不能となった際に現在の富士市住民が田子の浦沖で乗組員500 名を救出。
1855 年1 月21日幕府に代替船建造を申し出る。
1855 年1 月23日代替船建造が許可される。
韮山代官 江川太郎左衛門が代替船建造 取締役に就任。
1855 年1 月25日乗組員一行が戸田に到着。
1855 年2 月7 日下田にて日露和親条約調印される。
1855 年2 月10 日前後戸田にて代替船建造はじまる。
1855 年4 月26 日ヘダ号進水。(『ヘダ号』とプチャーチン提督が命名。)
1855 年5 月3 日ヘダ号試運転。(御前崎まで航行。)
1855 年5 月8 日ヘダ号出港。
1855 年5月12 日幕府の命により、戸田にて追加のスクーナ船建造を開始。
1855 年7 月14 日最後の乗組員らがロシアに向け出発。
1855 年12 月11 日6隻のスクーナ船戸田にて完成。
1856 年5 月29 日幕府 戸田で建造されたスクーナ船を君沢形(きみさわがた)と命名
スク―ナ船の技術は全国に広がり日本の洋式造船技術の先駆けとなる。

信州大学名誉教授 伊藤 稔 先生による考察・検討資料「洋式帆船ヘダ号の設計図を復元」はこちら